選択すること。
「洗濯する」
前、何かの本かなんかで人生一番重要な事は
「洗濯する」ではなく「選択をすること」
だと書いてあった。
まぁ多分2年位前に読んだ。
その頃も書いた気がする。
でも当時はあまりしっくりこなかったけれど、最近なんとなくわかったような気がする。
たとえば
今日飲みに行くか行かないか。
明日飲みに行くか行かないか。
明後日飲み…
って飲みだけではなく…
朝起きるかおきないか。
今日仕事するかしないか。
仕事を続けるかやめるか。
新しい事を始めるかはじめないか。
近寄るか近寄らないか。
外出するかひきこもるか。
営業マンに勧められて何かを買うか買わないか。
夜寝るか起きとくか。
小腹がすいてごはん食べるかたべないか。
太るか太らないか。
etc…
例えばどこぞに一人で飲みに行けばカウンターでちょっと話ができるオジサンからヒントをもらう事があったり、オーナーと話したり、横で話してる人や何かしてる人からヒントをもらったり、若い人の話を聞くだったり、色々とプラスになる事は沢山。
でも行かなければその行為から生まれるものはプラマイゼロ。
仕事すればつながりができたりするのでプラス。
しなければプラマイゼロかもしくはマイナス。
プラスになるかならないかはさておいて、四六時中 人は死ぬまで毎日何かしら選択をしている。
つまり「選択」をすることは常に起こっているわけである。
その何気ない選択の積み重ねがこれからに繋がるのだけれど、どの様に選択するかは
「自由」
そう!自由なのである。
周りに自分の選択に影響を与える環境があったり、人が居たり、出来事があったとしても、そんな中で自分の意思をつらぬく事も自由。
それに流される事も自由。
時には選択しないことも自由。
○○だから出来ない!
というのはしない事を選択しているわけで、できないのではない。
何かをしたければ選択をして行動を起こすことで新しい経験に繋がる。
小さな事でも経験する事が多ければキャパが広がる。
ちなみに、する事を選択してもそれに対して行動を起こさなければ、しない事を選択した事と変わらない事になる。
したがって選択は自由なのである。
宮本武蔵の考え方?を借りれば、水は自由。
コップに入っている水はただただコップに入っただけで、傾ければこぼれて地面に落ちる。
川を流れる水はただただ高い方から低い方に向かっているだけで、流れる事を意識してはいない。
たまたま地面のくぼみを通ってそれが永い年月をかけ川になってそこを流れているだけ。
川をましては大河を作ろうとも思ったこともないし、流れようとも思っていない。
ただそこに存在しているだけなのである。
人間の子供と大人の境界線がどこかはわからないけれど、分岐点としては働いて自分で稼ぎを得る様になったら大人だろうなと個人的には思う。
大人になれば、親の了承を得る必要は絶対ではなくなり、しようと思えば何でもできる。
仕事でも上司や代表の了承が絶対ではなく、良いと思った事を実践して成功させて報告すればそれは真成となる。
自分がどうで在りたいのか。
どの様になりたいのか。
いつでもどこでも自由に選択をすることができる。
今日はなんとなく、昼すぎからベローチェにて仕事をしながら、最近考える選択と自由について書いてみたけれど、これをUPするかどうかも…
ってくどいね(笑)
気づけばもうこんな時間。
今日もよう仕事をした!
ということで
おわり。